華燕で、、ラーメン堪能し、結果、消費エネルギー以上摂取か?その結果、家夜ごはんは、、
今は昔 2011年11月22日
10kmのあと、打ち上げを、、と思ったが、
スタッフの子どもさんが熱出していたり
ということで、打ち上げは延期。
家内とうちの応援に来てくれた次女と3人で、(長女は模擬試験とやらで不在)
マラソン会場の競技場の近くにある
富田の牧田団地内の
もともと中華でおいしかった、
麺厨房 華燕に行くことにした。

しかし、よーく混んでるわ。
30分ほどは待ったでしょうかね。
中華料理屋だったころは、
ときどき、来たんだけど、
このあたりはまだ、昭和の雰囲気ですよ。

そう、坦坦麺のおいしい中華屋から
麺厨房に変化して、
ブレイクしてからは、足が遠のいていたので、
がんばって、待ちました。

辺鄙なところだから、
このラーメン目的に来ている人ばかりだから、
みんな、根気よく待つわね。
店の中も、中華料理屋のなごりを
のこしているので、
通常のラーメン屋より、回転が遅いです。
まあ、中華料理屋時代を知っているので、
中華料理を食べると思えば平気ですわ。

まずは、坦坦麺(辛さは調節できるそう、今日は普通)
ただし、これは、大盛りです。200円追加だったと思う。
ほんと、中華料理の坦坦麺なのです。
スープが、料理としてしっかりしているから、本当においしい。

次はにんにくブラックラーメンです。750円かな。
これに、坦坦みそ丼をつけました。
汁は黒、醤油ベースなんでしょう。ニラとにににくと背油かな。
かなり、濃くがあり、やはり、中華料理ベースノ味付けなんです。
麺は太めです。麺に、うまく、まったりとした粘度の高い(脂のせいでしょうか)汁
がついて、おいしいです。

坦坦みそ丼がまた、おいしい。

最後にねぎ塩ラーメン。これも750円です。
セットでチャーハンつけました。
これも、とてもきれになスープで、
どちらかというと、いわゆる、中華スープベースの汁に
細めんがのるよう。そのスープがまた、おいしいのですよ。
チャーシューが、やはり、中華料理屋の料理なのです。

当然、チャーハンは中華料理屋のチャーハンです。
パラパラですし、おいしいです。

今度は、うわさの汁なし坦坦麺をくらいにきますわ。
でも、昔の中華料理のメニューが懐かしいなあ。。
ところで、
そのあと、10km走ったとはいえ、
さすがに、食べすぎて、しまったことにきづいたので、
(もちろん、これ一人で食べたのじゃないよ)
買い物をかってでました。
リュック背負って、
走りだしたものの、膝が痛い。。
ウォーキングに切り替えました。
南茨木方向の2km先の肉屋

薩摩まで買い出し、、

買いだしたものの、
走れないので、ウオーキングなら、も少し遠くに行こうと、
土曜日の講演きいた辻原登の本を探しに、(これが、ないのね。)
そうや、古本屋まで行こうというわけで、
旧茨木川(うめたてて道になってます。)沿いに歩きました。
そんなわけで、佐和良義神社まできてもうた。
このあたりの地名は沢良宜だ。

説明書きなんて長く住んでいるが読んだことなかった。
そういえば、このあたりは、高校のテニス部のころは
いやいや走っていた。ちなみに走り書きの内容は

当社は延喜式神名帳に記載された式内社で沢等良宜郷の通称「大宮さん」という。
万博を機に阪急南茨木駅を開設、ビル建築、小川改修が行われた。昭和48年春から49年秋にかけて弥生時代の銅鐸鋳型を始め住居跡や土器、土拡墓など多数発見されたところホヤホヤの新住居表示そのままに東奈良遺跡と命名された。
カクツチはカグの神、カグは銅の古語、サワラも銅器を指すので地名と神名が一致し、[ギはムラ]この鋳造工房跡は約2千年前にこの地にあった「さわらぎ遺跡」と確認され出土品はすぐ近くの文化財資料館に展示されてる。
境内社の八幡宮は沢良宜城の鎮守社で6百年前、足利初期の城館、早く退転して農地となり今は美沢高層住宅地になっている。
神は人の敬うによって威を増し、人は神の徳(メグミ)によって運を添う。
昭和61年10月 責任総代 高島好隆撰
このあたりの300m離れたところに銅鐸が見つかっている。
カグツチはイザナミから生まれた時、火の神だから、やけどさせたという神です。
そこらあたりが、この神社のいわれなのでしょうか。
もう少し、進むと 道祖神社と水神社がありました。

猿田彦が祭られています。

道祖神社は創建 十五世紀末から十六世紀初め沢良宜郷が解体され3字が誕生。その際、浜村の鎮守として創建。
水神社は遷座 一津屋分水口(現、摂津市)から安威川合流口までの神崎川改修工事の現場に祭っていた水神を工事完成後の翌年、明治十二年(1879)に当境内に遷座結局、古本屋でもなく、またの機会に、、
おりかえして、水尾と玉櫛あたりに、
こんな祠のある神社を見つけました。

水尾の公園の中にあります。
伯光神社(はくみつ神社、はっこう神社)別名:稲荷神社
近所にこんなものがあったのか。
えらいでかいクスノキですね。

始めて知りました。
由緒書きです。

この祠は伯光神社といい、伯光(ハクミツ)大明神が祀られています。
天保6年(1835年)の同社由来書によれば、当地の奥田家の長屋門新築の地鎮の儀に際し、稲荷さげの巫女に楠の大樹に811年に及び伯光大明神が宿っているとのお告げをうけ、奥田四郎左衛門ほか4名が講元となって祀ったといいます。
なお前年の天保5年夏の大旱害に村人達は藁でつくった竜をこの大樹に天に向かって這わせ雨乞いをし、その恵みをうけ、その霊感をえたのでしょう。その後幾度かにわたり旱害の折、祈りと願いが続けられてきました。
竜は藁束を縄で巻き、長さ5間程(約9m)の胴を作り、鱗として琵琶の葉を一面に挿し、眼や歯は茄子、ヒゲや手足は竹で型どり、大きく開けた口からは薄くはいだ青竹の皮で風でゆらぐようにつくられました。頭部は辰巳の方向に延びた枝に置き、尻尾は水をたたえた酒樽に浸し、立てた高張提灯の灯で照らし出し夜通し竜に水をかけて祈る。
このように7日間昼夜祈りつずけても、雨の降らない時は、その竜を高瀬川に流し、もう一度新しい竜を作りなおして再び祈りつずけたといいます。祈願の功あって雨に恵まれた時は、太鼓の合図で「テントのおかげ、ヒヤクに米1斗5升」といって村人が神酒を酌み交わして、神に感謝し、喜びを共にしました。この地が灌漑用水に苦労する土地であった事が特異な雨乞い習俗を生んだ一因であろう。この行事は、昭和22年(1947年)の大旱害を最後に、このような催しは途絶えました。
それは淀川を経て琵琶湖の水を利用する灌漑用設備が整ったためです。
宮守 茨木市水尾2丁目3番8号 奥田登
そのあと、スーパーで買い出しして、
結局、その日の夕食は、軽めにしようということで、
私の作ったサラダ
フルーツサラダ キウイ、りんご、伊予柑、ネーブル、
ヨーグルト2に、オリーブオイル1、塩、砂糖少々というドレッシング

ハムときゅうり
ヨーグルト2に、マヨネーズ1、ブラックペッパー多めのドレッシング

キウイとりんごとヨーグルトのソースというかジュースというか、、、
見た目おいしそうでないですね。

by zuitoshou | 2012-01-24 06:00 | グルメ