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もんじゃやきの仮説 と みるく もんじゃ  西屋 天6店

もんじゃ焼きをはじめてみたのは、
大学生。
18歳の頃だった。
お好み焼きを食べに行った店にあったのか。
お好み焼きを東京出身の人がもんじゃ風に焼いたのか
記憶は定かではないが、
いわゆるネタを鉄板全体にひろげはじめたのをみて、
一体、このひとは何をするねん。
と思ったことが最初だろう。
まさに、皆の鉄板を、
独り占めする。
まさに、これは東京の文化だと
思った。
和をもって尊しとする。
上方とは違うと思った記憶がある。


今は昔2011年9月14日韓国料理のあと
天六の西屋フードサービス
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このもんじゃ焼きを調べると、物の本には
お好み焼きの原型であると書いてあるのもある。
また、月島というのがもんじゃのメッカだそうだ。。
しかし、月島は隅田川の川底に堆積する土砂が船の運航に支障をきたしていたので、浚渫工事を行い、その際に発生した土砂の処分のために生じた島だ。したがって、月島は江戸時代には存在しないそうだ。1892年(明治25年)の「東京湾澪浚(みおさらい)計画」で出来た人口島。
一方、その横の佃島の名前の由来は、江戸時代に由来します。物の本によると、将軍に献上する魚を取るために、摂津国西成郡佃村(現在の大阪市西淀川区近く)の名主森孫右衛門とともに江戸に下った33人の漁師たちが住んだ島であることから、佃島と呼ばれるようになったとの事です。 佃煮もこの佃島から生み出された魚の煮物のことで、摂津国西成郡佃村に行った徳川家康が、漁民の保存食である魚の煮物を気に入って佃島に集団移住させ、「佃煮」を作らせたといった説もあります。 しかし、これは、おそらく、江戸に伝わる話だろう。いかんせん、大阪から漁師を連れてくる理由はない。
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僕が聞いたのは、本能寺の変のときに、徳川家康がこの日は住吉大社に参詣する予定で、信長急襲をきき、佃の漁師に助けられて、三河に逃げたといわれます。〔1582年〕 それぐらいの関係がないと、1612年に将軍家の献魚を命じて、佃島に移住することはないし、江戸近海の魚をどことってもよいなんて特権は与えないですよね。というわけで、家康を佃の人が救ったということなのでしょう。それが、最終的に、江戸幕府が開けるようになって、江戸に来てもらうようになったということなのでしょう。
天六の西屋フードサービスの 浅草もんじゃ
ベビースター、ブタ、ちくわ、もやし 600円
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ウィキぺディア によると、一般的には、お好み焼き類の起源は、安土桃山時代の千利休が作らせていた「麩の焼き」であるといわれている。その後、麩の焼きを起源として江戸末期から明治にかけ、味噌の代わりに餡を巻いて作る「助惣焼」が生まれる。この食べ物は東京の麹町で生まれ、明治時代には「もんじゃ焼き」「どんどん焼き」が生まれた。大正12年の関東大震災の際には主食的位置を占め、昭和になると東京ではウスターソースを塗って食べる「もんじゃ焼き」や「一銭洋食」が食料不足を補う方法としてもてはやされるようになる。それらが大阪にも伝わり、コンニャクや豆の具を入れしょう油味で食べる「ベタ焼」「チョボ焼」が誕生し、それが各種鉄板料理へと派生、関西地方や広島県において現在「お好み焼き」と呼ばれるスタイルに発展したといわれる。(麩の焼き -> 助惣焼 -> もんじゃ焼き -> どんどん焼き -> 「お好み焼き」と書いてあるのだが、あまりにも突拍子もない記述がしてならない。

そもそも、お好み焼きは、水で溶いた小麦粉に、好みの材料を混ぜて、熱した鉄板の上で焼いて食べるもの。
もんじゃは、小麦粉を水に溶きいろいろな具をまぜて鉄板で焼いたもの。もんじゃは、やはり、起源は、「麩焼き(ふやき)」だと考えられている。茶道を完成させた千利休の茶会の資料によれば、「麩焼き」は、水で溶いた小麦粉を伸ばして焼き、みそをはさんだクレープのようなお菓子。千利休の好みだったという。
ここで、考えられるのは、利休といえば、堺なので、クレープが麩焼きのおおもととも考えられること。
もうひとつは、韓国のチヂミの可能性だ。チヂミは、米粉、小麦粉に卵を加え、肉や魚、野菜など好みの材料を混ぜて、フライパンで焼いたもの。もともとは煎油花(チョンユファ)と呼ばれていたものが、煎(チョン)と呼ばれるようになった。チヂミは田舎の方言ということだ。 チヂミの歴史は古く、高麗時代の文献にもその原型と考えられるものについて記されている。となると、高麗というから、奈良時代までさかのぼることになる。当時の日本は、そちらの人や文化の流入による日本文化の形成時期だから、そのような食べ物は入ってきていた可能性が高い。そう考えると、千利休の時代には、廃れていたか。?大阪の一部の渡来人の住んでいたところでは残っていた可能性がある。
天六の西屋フードサービスの とんぺい
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次に検討しなければならないのは、小麦粉が日本に伝来したのはいつかということだ。
これもウィキぺディアによると中国への小麦の伝来も文献などからシルクロードが開かれた紀元前1世紀頃(前漢時代)と考えるのが一般的であり、中国経由で伝来されたと考えられている日本でも約2000年前の遺跡から小麦が出土しており、伝わったのはそれから遠くない弥生時代であると考えられている。奈良・平安期には五穀の1つとして重視された日本では製粉技術が未発達だったゆえ、小麦その他「粉」を使用した食品は、長らくぜいたく品とされた。庶民がうどん、饅頭、ほうとう、すいとんなどの粉食品を気軽に口にできるようになったのは、碾き臼が普及した江戸時代以降である。ということだ。

一方、クレープはどうかというとブルゴーニュ地方の食べものだそうだ。日本に来たのは不明とのこと。。1970年代に普及したという。クレープが南蛮貿易とともに伝わった可能性が高い。
さらに、もんじゃ焼きの名前の起源を調べると、もんじゃを焼くときにタネで文字を書いて遊んだことから「文字(もんじ)焼き」と呼ばれ、それが「もんじゃ焼き」となった。1819年刊の「北斎漫画」に、「文字焼き屋」の挿絵があり、この時代すでに江戸にもんじゃ焼きに類するものがあったと考えられている。東京では浅草近辺が発祥地という説が根強いが、正確な起源は不明だ。天六の西屋フードサービスの
カルボナーラもんじゃ
ベーコン、パルメザンチーズ、温泉たまご、マヨネーズ 750円  ???
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というわけで、かってな仮説を考えてみる。小麦粉が中国から日本に入ってきた奈良時代にはおそらく、チヂミのような高麗からの食べ方は伝わったのではないか。当時の上流階級である渡来人などには口にすることはできたのではないか。ただ、製粉技術が整わないので、庶民の食事としては普及はしなかった。従って、そういう渡来系の人の間である食事であったか。まったく、廃れたかということにだろう。時代が変わって、室町末期から戦国時代にかけて、堺でひらいた、町人文化と、南蛮文化の過程で小麦粉の新しい調理方法。すなわち、クレープなるものが、伝わったのではないか。それが、千利休がきにいり、茶の湯を中心とする政治的文化活動である。茶道とともに、麩焼きとして、現れた。その麩焼きは茶の湯と浸透とともに、そして、大阪の佃のひとの移住とともに、江戸にひろまったのではないか。そして、江戸時代の製粉技術の発展とともに、もんじゃ焼きが完成していったのではないか。一方、渡来人に伝わった、チヂミを起源とするものは、同様に、製粉技術と小麦の庶民化で、上方の方で、お好み焼きとして、進化したきがする。どう、考えても、お好み焼きともんじゃ焼きは、進化の上流、下流の関係でなく、並列して存在したものにしか思えない。
それにしても、もんじゃは食欲がそそられないわ。

by zuitoshou | 2011-09-17 10:00 | 徒然草